talulah gosh's blog

リハビリがてらの備忘録(昔のブログは http://d.hatena.ne.jp/theklf/ )

2021/12/24(金)イブの夜に

ずっと止まっていた本を少しずつ読み進めて、山本高樹『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』もようやく読めた。
海外旅行が珍しくなくなった現代でも、険しい山岳地帯や秘境はそれなりにハードルの高い場所だ。と言ってもテレビやネットで映像は見られるし、なんならドローンもある今はものすごい角度や位置からの映像も見ることができる。どんな物があってどんな人がいるかもよくわかる。だからきれいとかすごいとも思うのだけど、自分自身の意識にはあまり留まらずにさらっと流れていってしまう。その一方で、文章で読む旅行記はわりと興味があって、そんなにたくさんではないけど楽しく読んだ作品は多い。実際にその場で作者が実際に見た、経験したものごとからその国の人々の考え方や環境、生活なんかを、自分のペースで追体験しつつあれこれ想像を巡らせる楽しさがあるからだと思う。作者のフィルターがかかっているのは当然なので自分が現地に行って同じように感じるかはわからないけれど、もし自分が行って「思ってたんとちがう」ってなったとしても、旅行記がなかったらその比較対象もできないからそれはそれで面白いに違いない。
というか、旅行記は最初からある程度はそういう差分がある認識で読んでいるのだけど、山本さんが書く旅行記はその差分がかなり小さいんじゃないかという気がしている。これはもちろん、山本さんの土地や人、文化への尊敬と愛を、人として適度な距離感を忘れずに接し続けて来た長い日々があるからこそ書けることなんだろうけど。なんだけど、現地の人たちの考え方や文化、暮らしの様子の描き方があまりに自然で、自分が行ってもそんな風な風景や経験をできるんじゃないかと勘違いしてしまう。客観的な視点と丁寧さが両方あるからなのかもしれない。以前「ラダックのことを正しく伝えていきたい」と話されていたのを聞いたことがあるから、その地域の文化を記録する人間としての責任感もあるんだろうなと思う。今回は、そんな風にインド北部のヒマラヤ高原にあるチベットに魅入られ、ラダックを皮切りにその国内を記録をし続けてきた10年間の記憶を集めたものになっている。

旅行記にはいろんな形がある。その場所との接し方、切り取り方、考え方、描き方、文体、あれこれ。よっぽど真似しようと思わなければ、同じ場所を書いても一人ひとりまったく違う内容になる(と読む側としては思う)。自分の感情はなるべく抑えながら淡々と記録する専念する硬派さ、そして時々ほんの少しだけ感情が加わる山本さんの旅行記の雰囲気が私はとても好きだ。旅は非日常だし異世界だから自分の感情が高ぶるのはわかるし、そこで感じた新鮮な出来事を溢れんばかりの感情でぶつけてくる記録も一つの面白さだと思う。ただ個人的には、旅行記として触れた時に、現地の記憶や記録が個人を描くためのツールになっているものは湿度が高すぎてしんどくなってしまうので、選ぶ時に塩梅が結構難しい。そんな私にもしっくりくる旅行記というか。

ただ今回は時々日記形式も加えられていたこともあったからか、ご自身の出来事や感情が描かれたパートも含まれていていたからか、これまでの硬派さに加えて新たな面が見えたように感じた。そして、それがとってもよかった。自分自身の内面や感情を出した部分はあってもべったりした感じはしない。町中でのやり取り、ホームステイ先の人の言葉、長年の友達。老いも若きも交わす言葉は飾り気がなく、でもどこか暖かくてやさしい。地表には水があって氷で閉ざされる厳しい時期もあるけど、高山植物も咲く。ツンドラ気候っぽい質感のテキスト(と、思って一応チベットの気候を調べたら高山ツンドラだと書いてあった。なんかうれしい)。

生まれた場所以外のところでこれだけいろんな想いを持てる、感じ続けられる“彼の地”を世界から見つけられた幸せな人はそんなにいないと思う。だからこそ記録ができる氏、読んだ側も純粋に感心して、面白く、興味深いものとして受け入れられる。

本の後半では、文明の利器の流入や有名になることで訪れる人々の影響によって、少しずつ変わつつある現地の様子も見て取れた。故き良き文化はもちろん、新しい文化が入ってどんな風に変化していくかという過程も、記録し伝えていく人がいなければ後世には残らない。山本さんには体力が続く限り、その役目を担っていてほしいなあと勝手ながら思ってしまった。

表紙の女性、一冊目の『ラダックの風息』で私が一番好きだと思った花の民の写真の女の子と同じ方なんだそうで。十年ってすごいなあとしみじみしてしまった。

インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間の通販/山本 高樹 - 紙の本:honto本の通販ストア