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talulah gosh's blog

リハビリがてらの備忘録(昔のブログは http://d.hatena.ne.jp/theklf/ )

知っている。

10代や20代の頃はファッションが好きならアートも好きで、「知っている」ことがかっこいいと思っていた。まわりのかっこいい大人は皆物知りで、クラブやバーに集まる友人たちもそうだったから、知らない何かがあることが悔しかったし知らないと公言することも嫌だった。それで、人には気づかれないようこっそりと勉強していた。ただ動機はどうであれ、そうした行動は続けていると本物の知識として身につき、より広い興味へと繋がったから不思議なものだ。本屋を探し回って見つけた関連本すらそれなりに言語知識がある前提で書かれたものが多く、理解するために何度も読んでいたことにも関係があったと思う。参考書や資料は難しい内容のほうが自らの成長、知識量や興味対象の変化によって目にとまる箇所も変わり、何度も新たな発見ができることはよく知られた話だ。

という自分の経験を振り返ると、ある程度の見栄やハッタリは、人の好奇心や向上心を育てる上においてもいい形で作用していた気がする。でも今は、とても有名で影響力があるファッション誌ですら「アートがわからない」と最初から公言してしまう。そして「それ(無理しないこと)が自然だから」と思う若者が大多数なのだろう。ジャクソン・ポロックマーク・ロスコのような、ファッションデザイナーやミュージシャンの引用先としても基礎教養だったはずのアメリカ抽象表現主義を「わからないけど(おしゃれで)かっこいい」例として改めて引き合いに出してくるくらいには。

実際に、世代が若い知人の中には、そう特殊ではないはずの話でも知らない話や言葉があると(「何ワケわかんない話してんの? バカなの?」的な調子で)「何それ?」と言ってくる人もいる。その「私が知らないことを言う側が責められるべきである」的な調子に、最初はとてもびっくりしたのを覚えている。先の記憶の話にもあるように、私は人の話や言葉にわからない部分があると引け目を感じるほうだから、余計にそう感じたのだと思う。性格がいい悪いの話ではなく、そんな思考が彼(女)たち世代のデフォルトなのだとわかってきた今では、改めて言い直したり説明を加えることはするし、そういうものなのだと捉えられるようにもなった。
何かしたいと思えばすぐに見られるマニュアルがあって、原典まで辿らなくても雰囲気を教えてくれる抜粋やまとめがあり、頼まなくてもそれっぽい形になれるティップスを教えてくれる某かがある。一言で言えば「時代が違う」ということに尽きるのだろう。そういうものにできるだけ頼らないでいたいとは思うが、吟味して使う力があれば便利なこともわかる。だからその存在の意義やよしあしはここではどうでもいい。

ただそのせいで、何か面白そうなことに触れた時に、自分の力だけで一次情報に辿り着けた嬉しさや、他人は知らないであろう何かを見つけた時の喜びを得る経験がどんどんなくなっていくのだとしたら。見るものすべてが新鮮な子ども時代を経たあとの大人にとって、日々のどこに向上心や好奇心が育つ機会があるんだろうかと思って少し怖くなる。