talulah gosh's blog

リハビリがてらの備忘録(昔のブログは http://d.hatena.ne.jp/theklf/ )

笑っている

 実家でなんとなく小さい頃の写真をiPhoneで撮影し、何枚か持って帰ってきた。そういう時に選ぶのはたいてい3〜4歳ころの写真で、中高校生の頃の写真を選ぶことはほとんどない。というかそもそも写真があまり残っていないのだけど、その理由は自分ではよくわかっている。手にした写真はたいがい屈託なく笑っていて、ああなんか楽しいことがあったんやろなあよかったねと30数年後の私が思い浮かべるような雰囲気がある。だから、選ばない写真にはそれと正反対の理由がある。

 写真はほぼ父の手によるもので、使っていたカメラは確かPENTAXの一眼レフ。当時の父は生活必需品の車以外にも、30代の若者らしくボーリング用具や釣り道具やゴルフ道具(のちにはPC-8001も)を持っており、いわゆるホビーと呼ばれる類のものは一通り通っていたからカメラもホビーの一環で持っていたのかもしれない。もしかしたらわたしが産まれたから買ってくれたのかもしれない。まあどっちにしろその頃の写真はたくさん残っているので、他の道具に比べると出動回数は多かったはずだ。たくさん写真を残そうといつも重いカメラを持って来てくれていたように思うし。

 笑っている写真を見ると、自分には写真を撮られているという意識があまりないように見える。わたしはあらぬ方向を向いて笑っているか、レンズをきちんと見ている時はおちゃらけてポーズを取っているようなものが多い。だから今の自分までふわふわとした楽しい気分になれる。

 だけど、改めて自分自身で写真に対する記憶を振り返ると、一番古いものは「写真が嫌い」ということとその時代に行き着いてしまう。A型の几帳面な父の写真はピントを合わせて撮るまでの時間がとても長かった。ただでさえ人に見られるのが恥ずかしいのに、人がたくさんいる中でいつまでも同じポーズをしていなければならないのがとても嫌だった。その頃はちょうど短気さと負けず嫌いが出てきた頃でもあり、それに合わせて子どものくせに自意識までとても高くなってきたのだと思う。なんで写真なんか撮るの、とぶすぶすと怒り、なんでそんな風に不機嫌になるのか不思議だったであろう親からは、なんでそんなこと言うんせっかく楽しい旅行やのに! と逆に怒られ、すっかり空気が悪くなってしまったその場でひとり「感じ悪い感じ!」を炸裂させたままでいつも写真を撮ることになった。だからこの頃の写真では、私はいつも口をへの字に曲げてむっつりとした怒り顔で納まっている。誰も私のことなんて気にしてなんかいないのに。

 この自意識の高さと写真が嫌い、という要素はずいぶん後まで尾を引いた。10代は斜め見がかっこいいと思ったから、20代は自分の笑い顔が好きではないから、他もろもろの理由で長らく積極的には写らずにいた。30代になってようやく気にしないで写真に写ることができるようになった。未だにレンズを向けられると顔がこわばるし自分の顔が好きになった訳でもないけれど、細かいことがどうでもよくなってきたのかもしれない。「誰も自分なんて見ていない」と認識することはとても大きい。あとは友達がみんな写真が上手だったり、そういう人たちがある瞬間を納めてくれて「ああこういうのもいいな」と思わせてくれたりするようになったから、というのもある。

 10代の頃、クラスの子から「ずっと笑ってんねー」と言われた時、そんなん言われるくらい笑ってるなんてあほみたいやんわたし、と思って笑わないことにした。10代は放っておいても光っているからそれでもいい。かわいくないけどそれもかわいい。で、周りの大人は終わってくれる。そうではなくなった今は、今だからこそ笑う顔の威力がわかるし見える。「ずっと笑ってんねー」と言われた時に「ほんまーありがとう」と言ってずっと笑っていたら、もう少し10代は楽しかったかもしれない。戻れるわけではないその時の判断を後悔している訳では別にないけど(いやちょっとしてる)、写真を見返した時にふとそんなことを思ったりもする。